福祉関係の話というのは人それぞれ立場があり、考え方や価値観がかなり異なるので、迂闊に触るとアレなことになるんだけど、あえて雑に。
福祉って表向きは「優しさ」とか「愛」みたいな価値観で成立しているように見えるんだけど、実際のところは「情けは人のためならず」という部分が結構あり、「明日は我が身」という現実があって、一定の配慮であるとか、ある意味で特別な対応が許されている部分があるんじゃないかなあと思う。
救急車なんてのはひとつの典型で、もちろん救急車の通行を優先し、救急車に道を譲るというのは常識としてあるけど、その常識が常識として世間一般に受け入れられるのは、誰しもが救急車に乗る側になりうるから。もちろん日頃はいちいちそんなところまで考えて救急車に道を譲ったりしないが、そういう「明日は我が身」的なものがあるから道を譲れるし、そういう「明日は我が身」価値観にあいのりできない人は、「フリーライダー」としてただのり批判される。
車椅子にしても人工透析にしても、怪我や病気というのはいつなんどきなりうるやもしれぬもので、だからこそそこに一定の配慮や保護が生まれ「お互い様」ということになるが、健常者から見て「いつなんどきなりうるやもしれぬ」の範囲から外れるものは、「明日は我が身」ということにならないので一定の配慮や保護の対象からはずれやすい。ちょっと過激な行動をとる障害者に対する世間の反応がこれ。
同様に赤ん坊・幼児・子ども、あるいは単純に年下に対する配慮がはずれやすいのは、人は加齢する一方で年が戻ることはなく、そのために年下に対しては「明日は我が身」という想像力がはたらきづらい。お年寄りが保育園建設に反対しやすい理由のひとつがこれで、自分は保育園に入ることはないし、自分が子育てをすることもない。なので反対をすることに問題がない。
仮にお子さんが周囲にいる、あるいはお孫さんがという状態であれば、そのお子さん・お孫さんを通して「明日は我が身」という状態が生まれるため、同様の身持ちに対する配慮もできるようになり話もかわる。結果として「理解がある」「優しい」人になる可能性が高いが、そういう環境から離れれば離れるほど「理解がない」「優しくない」人になってしまう危険性も高まる。
そういった意味で高齢化・少子化は、子どもを通じて得ていたはずの社会的弱者についての想像力を減らしてしまうのかなあと思う。加齢による頑迷傾向を強めてしまうし、同時に接する機会がないので、自らが社会的弱者になってしまったときの振る舞いの問題につながってしまいやすいのかもなあと。世代の分断が常識の分断となり、結果として福祉の分断になってしまう。
そんなことつらつらと考えていました。特に結論はないです。では。