子どものとき、アメリカンドッグの良さがわからなかった。
高速道路のサービスエリアなどの売店では、フランクフルトとアメリカンドッグが並んで売っていることがよくある。若き肉原理主義者のタケルンバとしては、何が悲しくて衣つきにせねばならんというのが本音であった。肉だ。俺は肉が食いたいんだ。衣が食べてえわけじゃねえんだ。つか、どこにアメリカ要素があるんだよ。
しかもアメリカンドッグだと、中心のソーセージがたまに「実は魚肉ソー」ということがある。そうなるとますます「アメリカンとは」という哲学であり、我思う故に我ありであり、神は死んだし、海は死にますか山は死ぬますか風はどうですか空もそうですか、教えてください。
しかしだ、最近アメリカンドッグがうまい。あのまわりの生地が妙にうまいと思えるようになった。相変わらず「アメリカンと(以下略)」というところは謎であり、防人になるしかないのだけれど、ドッグがソーセージとしたら、あの生地こそがアメリカンなのは間違いなさそうなので、アメリカンを俺は受け入れつつある。
カリッとした生地。生地の甘さ。変な粉っぽさ。チープだ。だがそれがいい。うまい。
また、中のソーセージが魚肉ソーでも構わない。あの生地がいいのだ。あの生地がアメリカンなのだ。ソーセージの問題ではないのだ。アメリカンドッグを揚げて揚げて揚げまくれ。メイク・アメリカ・グレート・アゲイン。
年をとると人は丸くなるものですね。ちなみに俺、今年本厄です。